完備市場

効率的市場仮説に続いて、われわれが議論している市場の成り立ちについて紹介しておこう。 われわれは完備市場を前提としているということである。

数学で完備(completeness)という言葉はいろいろなところに登場して、もっとも最初に出会うのは実数の完備性であろう。 その性質を簡単に言えば、任意の数列の極限値が、(無限を除いて)いつも実数の中のある値をとることをいう。

実数の完備性は抽象的で公理的な話題となるので、初等では取り上げることはないし、特別に知らなくてもほとんど困ることはない。 しかし数学の基礎を構成する重要な仮定であって、実数の完備性を仮定することで、 有理数と有理数の極限によってすべての実数をあらわすことができるのである。

ファイナンスにおける市場の完備性も、これに準じた公理的な考え方である。

これまでの議論では、市場に裁定の機会がなく、無裁定の市場であれば一物一価が成立して、複製ポートフォリオが作成可能であるとした。 しかし、ちょっと考えると、この議論は少し強引だろう。

例えば、複製ポートフォリオを作製するために必要となったある資産の数量が、$\sqrt{2}$であるといわれても、 現実的には近似な値でしか用意することはできない。この段階でも複製ポートフォリオはちょっと辛い要求となるが、 とりあえず近似でもよいものとしよう。

完備市場の仮定とは、どのような資産の複製も可能な市場のことをいう。これは現在だけでなく将来についても成立するものと考えるため、 数量分割以上の面倒な議論を含んでいる。

現在と将来を考えよう。将来の状態は不確実なので当然複数考えられ、その状態ごとに資産の価格が定まる。 もし3つの状態が考えられ、資産が三つであるならば、9つの価格が想定される。

完備市場とは、状態ごとに定まる資産の価格を、市場の資産のポートフォリオで複製できることをいう。 もちろん実数値によってである。

つまり、9つの価格を三つの資産とそのポートフォリオでいつも複製できるならば市場は完備であるという。市場が完備であるならば、 無裁定の条件が働くことで一物一価となり、価格が幅を持つようなこともなく一意に定まるのである。

完備市場とは無裁定の条件に加えて、資産の価格が一意に定まる条件となっている。

具体的にやってみよう。市場は3つの資産で将来は3つの状態が想定されるとする。 \begin{array}{l|lll} 現在 & 将来 & & \\ & 状態1 & 状態2 & 状態3 \\ B& 1 & 1 & 1 \\ S& 80 & 120 & 150 \\ C& 0 & 20 & 50 \end{array} これまでどおり$S$が株式、$C$が権利行使価格100のコールオプション、$B$が安全資産、安全資産利子率は0というように考えてもらえばよい。

たとえば状態1が生じたときを考えよう。どの資産の価格も複製できるためには、資産価格1のポートフォリオが複製できればよい。 なぜなら他の資産は価格1の資産を必要量だけ持てばよいからである。そしてそのとき状態2、3では価格は0となっていればよい。

すなわち4つめの資産を考えて、資産$x=(1,0,0)$という資産が複製できれば、すべての資産が複製できる。

すると、保有割合を$S\sim w_1,C\sim w_2, B\sim w_3$とすれば、 \begin{eqnarray*} 80*w_1+0*w_2+1*w_3&= &1 \\ 120*w_1+20*w_2+1*w_3&= &0 \\ 150*w_1+50*w_2+1*w_3&= &0 \end{eqnarray*} という連立方程式を満足する$w$を探すことになる。

この$w$は、$(-1/20,1/20,5)$となって求められるので、この市場は完備である。

次に状態2が生じたらどうなるであろうか。このときは、資産$x=(0,1,0)$によって、 \begin{eqnarray*} 80*w_1+0*w_2+1*w_3&= &0 \\ 120*w_1+20*w_2+1*w_3&= &1 \\ 150*w_1+50*w_2+1*w_3&= &0 \end{eqnarray*} という連立方程式であるが、この解は$w=(1/12,-7/60,-20/3)$となる。

状態3では、同じような計算をすれば、$w=(-1/30,-1/15,8/3)$となって、この市場はいずれの状態においても常に完備である。

この例はまことに都合がよくできているのだが、資産の数が想定される状態の数より少ないときはどうなるだろう。 ふつう連立方程式は成立せず、解くことはできない。

線形代数学の教えでは変数と(一次独立な)方程式の数が一致すれば解が存在する。 すなわち、市場が完備であるためには、将来想定される状態の数が資産の数に等しくなければならない。

現実は資産の数はたかだか有限であり、将来の状態の数は資産の数より遥かに多いといってよいだろう。 したがってすべての市場は不完備であると見るのが常識的である。

残念ながら市場が不完備であれば価格は一意に定まらない。 一意に定まらなければ、一物一価も成立しようがない。

完備市場の仮定は、無裁定市場よりも基礎的な前提といってもよいかもしれない。

われわれは完備な市場を前提として議論を行っているが、 これは現在の数理ファイナンスがもつ非現実的といってよい仮定のひとつであることを覚えて置かれたい。








実数の完備性とは、上に有界な集合が上限(sup)を持つことで表される。
(基礎数学のブログ"「WILL THAT BE ALL」"を見られたい。)











































































不完備な市場による研究も進められている。




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